戸塚哲也 岐阜で見つけたセカンドライフ

 18歳と1日で飾った日本サッカーリーグデビュー。当時「天才少年」と称された戸塚は読売クラブや日本代表でストライカーとして活躍した。"狂気の左サイドバック"と称され、共に日本代表でも活躍した都並敏史とは、同じ小学校・中学校の同級生で、青春時代を共にした朋友だ。戸塚と都並はある日一緒に日本サッカーリーグの試合を観戦しに行った。その試合の帰り道、戸塚と都並は「絶対俺たち日本代表になろうな。」とお互いを鼓舞し、読売クラブでの練習に明け暮れ、のちに2人は夢を現実のものとする。戸塚はサッカーの神様"ペレ"に憧れ、とにかく"プロサッカー選手"になりたくて、日々の練習に励んだ。

 戸塚は日本代表や読売クラブ・ヴェルディの黄金期で活躍し、引退後は地域リーグの監督を務め、3チーム連続でJFLへと昇格させるとゆう偉業を成し遂げ「昇格請負人」とも称された。

 そんな戸塚は、現在、岐阜に生活の拠点をシフトし、2015年から岐阜に完全に移住しようと決心し、2017年5月に岐阜県瑞穂市に"湯麺戸塚"(たんめんとつか)をオープンさせた。

"世田谷生まれの天才ストライカー"戸塚哲也。岐阜で見つけたセカンドライフとサッカーへの想いについて聞いた。

小学生時代の戸塚。毎日のようにボールを蹴っていた。

左から戸塚、都並敏史。のちに2人は日本代表に選出される。

岐阜へ移住した理由

 2006年に戸塚が監督を務めたFC岐阜。戸塚は現役を引退後、指導者としての道を歩もうと決意した。FC岐阜は、初めて監督を務めたクラブだ。FC岐阜は、戸塚が監督を務めた当時は地域リーグだったが、今ではJ2にまで昇格し、岐阜県内唯一のプロサッカーチームとして活動を行なっている。

 「FC岐阜の監督に就任した2006年に岐阜に引っ越して、FC岐阜の監督が終わってからも岐阜の住まいはキープしつつ、神奈川の住まいと往復するような暮らしをしてました。僕は二子玉川生まれ二子玉川育ちで親も東京だったから、いわゆる"田舎"が無いんです。なので、どこか田舎に対する憧れみたいなのもあってか、岐阜の豊かな自然や、東京に比べてのんびりした時間の流れに魅力を感じましたね。岐阜には海はないけど川がとにかくキレイで。とにかく川遊びが楽しくてバーベキューをやったり花火大会を観に行ったりもしました。鮎などの川魚や水も美味しいです。地域の人柄の良さにも惹かれましたね。」

都会っ子の戸塚はそんな岐阜に魅せられ、2015年に川崎から母親も連れて岐阜に完全移住することを決心した。

"湯麺戸塚"オープン

 戸塚は現役時代から引退後、川崎で長年愛された焼き鳥居酒屋"酔臥居"(すいがきょ)のオーナーもつとめていた。10代の頃からサッカー教室などで全国を飛び回っていた戸塚は、全国の美味い食材との出会いも多かった。各地で出会った食材を全国から仕入れ調理し、お店で提供していた。食材のチョイス、お酒との相性、調理方法など日々研究して提供していた戸塚は、食の世界でも職人気質だった。そんな戸塚はなぜ、"湯麺"を選んだのか。

 「単純に昔から湯麺が好きだったんだけど、こっちに来て驚いたのが湯麺ってゆうと「坦々麺?」って聞き返されたりしてあまり湯麺がポピュラーじゃないことを知って。東京に行ったら即席の湯麺をお土産で買って来てみんなに振る舞ったりもしてました。ちょうど岐阜に基盤となるお店をやりたいなと思っていたし、美味しい湯麺をみんなに知ってもらいたいなとゆうのがあってお店をオープンしました。知人に紹介してもらったテナントもタイミングがバッチリはまりました。」

 オープン初日にはたくさんの著名人からの祝い花が店頭を飾り、たくさんのお客さんが詰めかけた。やはり一番人気は湯麺らしく、メニュー開発について聞いてみた。

 「まず自分の頭に描く"理想の湯麺像"に近づけたいなと思って、料理の基本は分かっていたつもりだったけど、オープンする前に知人のお店で修行しながらダシの取り方、食材のチョイス、火加減、色々なことを改めて学んで研究しました。」

 戸塚は目を輝かせながら続けた。「チャーハンや餃子も自分の好きな味なんですけど、それもその味を持ってる人に連絡をとったりして伝授してもらいました。例えば餃子を教えてくれた方は、わざわざ横浜から岐阜まで2回も足を運んで熱心に教えてくれて本当にありがたかった。キャベツの切り方やサイズ感はほんのちょっとの違いで食感や味に影響してくるので、そこは徹底的に教えてもらいました。」

一番人気の"湯麺"

サイズ感もナイスな絶品"餃子"

湯麺とも相性抜群な"チャーハン"

岐阜の地で想う"サッカー"

 全国で開催される"名蹴会サッカークリニック"では、自らの経験から培ったサッカーの技術やマインドを少年少女に伝えている戸塚。ボールが足に吸い付くような柔らかなトラップも健在だ。クリニックに参加する子どもたちには技術指導以外にも"考えて練習に参加する"ことの重要性を説く。

 「コーチに言われたメニューをただやっているだけでは意味がないし、コーチは何のためにこのメニューをやっているんだろう?とか考えて練習に参加しないといけない。さらにチームの練習以外にも、家でもどこでも空いた時間に常にボールを蹴っているような気持ちが欲しいですね。」

 戸塚はまだ19歳の頃、サッカー留学として単身スペインに渡りバレンシアCFの練習に参加した経験を持つ。当時の日本サッカー界で単身スペインに渡るような選手はほぼ皆無で、当時のサッカー専門誌もその模様を巻頭で特集したほどだ。"天才少年"戸塚は、海外サッカーに意識を向け、貪欲に吸収しようとしていた。

「知人のツテでバレンシアCFが受け入れてくれるとゆうことになり、単身でスペインに行ったんですけど言葉も文化もわからないので随分と苦労しました。当時日本では、少なかったけどスペインの試合をテレビで観ることができたんですが、僕はテレビに映る試合以外で、彼らが普段どんな練習をしてるのか、見たかったし経験したかったんです。それでいざ練習に参加してみると日本の練習との違いに驚きました。ボール回しひとつとっても、日本だとヘラヘラ笑いながらやってるけど、スペインの選手はボールを取りに本気でタックルしてきますから。スピードも早いし、日本との違いに戸惑いました。」

 戸塚は2006年にFC岐阜を地域リーグからJFLに昇格させた。そこから立て続けに「2007年 FC Mi-O びわこ」、「2008年 FC町田ゼルビア」の指揮をとり、3年連続でJFLに昇格させるとゆう偉業を成し遂げた。
当時は、まさか移住して湯麺屋をオープンさせるとは思わなかったであろう岐阜の地で、当時を戸塚は振り返る。

 「当時はまずチームの雰囲気作りが大事だと思っていて、選手はじめチームに関わる全員が「勝つことのイメージ」を共有していないとチームがバラけるのでそこは意識して取り組みました。選手に対してはグラウンドで何をするべきか、何が求められているのかとゆう意識づくりをしました。ミスからの失点も多かったので、ミスを減らすことはもちろんですが、相手のミスを誘ってチャンスを作るよう采配したこともありました。選手の意識として、"サッカーで飯が食えてよかった"ってゆうレベルではダメで、とにかく"ナンバー1が獲りたい"とゆう気持ちを持って、"どうやって点を獲る?”、”どうやって勝つ?”とゆうことをとにかく日々考えなきゃいけない。」

 戸塚が育った読売クラブは、会社での仕事と並行してサッカーをやる企業の社会人チームが主体だった日本サッカーリーグで、当時異色な集団だった。読売クラブは、サッカーだけで飯を食う集団であり、サッカーが本当に好きな人間の集まりで、オフザピッチでもチームメイトとのサッカー談義は尽きなかった。また、チームメイトだったジョージ与那城、ラモス瑠偉とプレイすることで"ブラジルサッカー"が染み着き、技術や戦術はもちろん自身のサッカー哲学の礎も築くことになった。その哲学は、これまでの現役生活、監督を務めたクラブ、はたまた少年少女へのサッカークリニックで全国に確実に伝播している。

 「年齢も年齢なんだけど、最後にもう1回、真剣勝負のチーム作り(監督)をやってみたいね。岐阜が好きだし、監督業はFC岐阜で始まったから、最後もFC岐阜で終われたらなと思うよ。」

戸塚哲也が岐阜で見つけたセカンドライフ。新天地での活躍は、まだ始まったばかりだ。

SHOP INFO.|湯麺 戸塚(たんめん とつか)

〒501-0223 岐阜県瑞穂市穂積1596−4
営業時間: 11時30分~14時00分, 18時00分~21時00分
(月曜定休)

PROFILE|戸塚哲也 -TOTSUKA Tetsuya-

1961年 東京生まれ
出場試合数:国際Aマッチ18試合 / JSL 239試合 / Jリーグ 17試合

当時の最年少出場記録でもあった18歳の若さで日本サッカーリーグデビューを飾り、読売クラブ〜ヴェルディ川崎の⻩金期を支えるエースストライカーとして活躍。19歳で日本代表にも選出され、1981年にはスペインのバレンシアCFにサッカー留学。1984年に14得点を上げリーグ得点王にも輝く。現役引退後はサッカー解説者、指導者としても活躍。地域リーグ所属クラブの監督を務め、異なるチームを3年連続でJFL昇格に導くとゆう偉業を成し遂げ「昇格請負人」と称され る。