特別対談
出井伸之 × 金田喜稔

早稲田大学を卒業後、ソニーに入社。主に欧州での海外事業に従事し、日本でも数々の事業部長を歴任したのち同社社長に就任。10年に渡りソニー経営のトップとして、ソニー変革を主導した出井伸之氏。
 
退任後にクオンタムリープ株式会社を設立し、自身の経験をもとに、日本から次世代のグローバル企業と次世代リーダーを生み出そうと日々奔走している。
 
日本発のグローバル企業のトップを務めた出井氏の眼に映るスポーツとは。
 
桜咲き誇る都内某所。元サッカー日本代表”異端の天才ドリブラー”金田喜稔が出井氏のもとを訪れ、両者の対談が実現した。

 

いま、日本のスポーツ界に求められていること

−金田
出井さんのスポーツのご経験についてお伺いしたいんですけど、ゴルフはどのくらいのペースでやられているんですか?
 
 
−出井
毎週やっていますよ。今でも240ヤード近くは飛ばしますよ。
 
 
−金田
それはすごいですね。始められたのはおいくつ位なんですか?
 
 
−出井
30歳前くらいですが、はじめから飛んでいましたね。僕が小学生、中学生の頃、野球のアンダースローのピッチャーだったんですけど、アンダースローの投球フォームってゴルフと全く同じなんですよ。こうやって投げる時の手とスイングの軌道、体の残り方。


−金田
その理論は僕初めて聞きましたね。


−出井
いいでしょ?僕はね、テニスもずっとやっていたんですけれども、手が上に上がらなくてファーストサーブが下手なんですよ。だから野球ではアンダースローで投げていたんだけど。
 
 
−金田
多分僕にはできないですけど面白いですね。僕もゴルフはかなりやっていた時期があったんですけど、出井さんがそうやってアンダースローの理論をご自身のドライバーに結びつけられたり、スポーツに取り組んでらっしゃる中で、「非連続の飛躍(クオンタムリープ)、つまり以前ご在籍されていたソニーがグンっと非連続的に伸びた時期があった、というような記事を拝見したことがあるんですが、スポーツでもそういったご経験があったとか、ゴルフを突き詰める事とビジネスの接点ってあるんですか?
 

−出井
ゴルフとビジネスはすごく接点がありますよ。アメリカでも統計があって、良い企業の会長とか社長はハンディキャップが低いとか。ゴルフというのは「プレイヤー」なんですよ。どんな生意気な偉ぶったワンマン社長でも「下手だったら下手」なんですよ。会社だと気づかないことがゴルフを通して気づくことがあるんですけど、会社で大勢の人間とビジネスを進めるのと違って、ゴルフは自分一人でやらないといけないから。自分のことを客観的に見ることができますよね。でも、社長をやるとゴルフは下手になりますね。やる時間もないし、他に考えることも多いから。だから社長になってスコアが下がって、社長を辞めた途端にシングルに戻りましたよ。そうしたらオリックスの宮内さんから「君も一人前の社長になったね、下手になったね」って当時言われましたよ。

 
−金田
確かに、風や雨などの天候、相手やスコアに対しての競争意識なども受け入れて、その中で戦略を立ててやっていかないといけないですよね。僕は現役時代はフォワードだったので、どちらかと言うとイエローカードを受ける側なんですが、サッカーの試合中に、ペナルティエリアでわざと派手に転んだりしてシミュレーションでファウルを誘ってPKに持っていこうとする場面が見受けられることがあるんですけど、同じスポーツでもゴルフは全く逆ですよね。フェアで自己申告の紳士的なスポーツだなって。その辺りも含めてゴルフをやっていると非常に面白いしタメになりますね。


−出井
スポーツが好きっていうのは、プレーヤーとして好きなのと観るのが好きなのと違いますけど、ゴルフをやっているうちに「聞く耳」が出来てきたね。「聞く耳」っていうのは、自分を育てるんですよ。
−金田
出井さんが今取り組まれている「ベンチャー支援の仕組みを変える」ということについてお伺いしたいのですが。
 
 
−出井

アフリカに「"It takes a village to raise a child."(一人の子どもを育てるには、村中みんなの知恵と力が必要だ。村全体で育てよう)」という有名な諺があるんですよ。要するに、生まれる子どもを新しいビジネスの創出に置き換えて、ビレッジというコミュニティで、みんなで育て生み出していくということですね。
 
 
−金田
それは昔の日本の地域社会が担っていた役割とも重なる部分ですよね?


−出井
そうですね。日本には投資家も大企業もあるけど、システムとしては日本はやっぱりちょっと遅れていますね。


−金田
そういったベンチャー企業や若手を育てようみたいな発想や、いまもバリバリ働かれるエネルギーはどこから湧いてくるんですか?


−出井
未来を夢見ることかな。僕がソニーに入社した時は売り上げがわずか80億円程度だったんですが、僕がソニーを辞めた時には8兆円くらいになっていました。つまり1000倍伸びているわけですけど、売り上げ80億円くらいの規模の会社がね、「お金が足りない」ということでどれだけ苦労しているかをずっと見てきたわけですよ。ベンチャーだから初めはフレンド&ファミリーですけど、銀行に行ってもアカウントあげてくれません、お金も貸してくれません、でしょ? 苦労の連続なわけですよ。だからソニーも個人や銀行にお願いしたり散々だったんですよ。成長はするんですが成長をするほど成長が死の谷に結びつくんですよ。成長するということは、モノを材料から作って、売ってお金になるまで時間がかかるじゃないですか。日本はそれを補うシステムがほとんど無いから、あの頃と同じだなという感じですよ。国内のあるメガバンクでも、8万社くらいしかアカウントを持っていないんですよ。世に何百万社あるの? そういうの考えるとね、やっぱり仕組みができていないんだよね。


−金田
メガバンクが中小に対して投資して回収する気概がないというお考えなんですか?

 

−出井
そうですね、まず「仕組み」がないですし、そこに至る前の「育てる」という考えをあまり持っていないんです。先週も沖縄で行われたベンチャー企業の集まりに行くと、沖縄のベンチャー企業もやっぱり苦労しているんですよね。でも今は、モノづくりばかりじゃないから、会社を作るのにあまりお金がかからなくて、そういう面ではいい風が吹き出して来ているんじゃないかと思うんですけど。日本はまだ、何か一つに投資はするけど、仕組みを作って育てようという土壌は残念ながらまだまだなんですよね。
−金田
出井さんが早稲田大学をご卒業されて、当時のベンチャーであったソニーに入社されて、1年後にスイスに留学されていますけど、なぜスイスを選ばれたんですか?
 
 
−出井
その頃の日本はとにかくアメリカを目指すみたいな風潮があったのですが、たまたま私の父が早稲田の国際経済学の教授で、辞めてスイス・ジュネーブのILO(国際労働機関)に就職して向こうで10年くらい暮らしていました。私は帰って来てから生まれた子なんですが、小さい頃にヨーロッパの話をずっと聞いて育ったんですよ。僕は、盛田昭夫さんと井深大さんという二人のソニー創業者と出会って、1年働いたら休職して親から借金して留学しますからといって、留学前提で就職したんですよ。
 

−金田
そうだったんですか。お父様からヨーロッパの話を聴くうちに興味が湧いてきたんですか?
 
 
−出井
僕は影響されていないと思っていたんですけれども、ヨーロッパの将来の可能性を勉強して考えたことがあるんですよ。そうするとヨーロッパはものすごく伸びるチャンスがあるところだとわかって、ヨーロッパで伸びる会社に就職しようと思いました。ソニーだなって思ったんですよ。さらになぜソニーを選んだかというのも、当時若い頃に真空管のこんな大きいラジオを持っていたんですけど、早慶戦の野球の応援に行った時にとっても小さいソニーのトランジスタラジオを見て、これはすごい会社だと思いました。それで、父親が過去に働いていた週刊東洋経済の編集部に取材に行って、ソニーの事をどう見ていますか?と聞いたら「いい技術は持っているけれど、人がいない」と。技術がユニークで、小さい会社であることに魅力を感じて、そこで自分の力を存分に発揮したいと思って志望しました。入社してからは想像以上に厳しい現実が待っていましたけど、それは大いに刺激になりましたね。


−金田
フランスでもソニー・フランスの設立に携わられているじゃないですか、他の国もあったのに、自発的に出井さんが決められたんですか?


−出井
僕はもともとスイスに赴任していて、結果ヨーロッパの半分くらいを担当していたんですよ。ソニーの本社がチューリッヒの隣町にあったんですが、そこは一番税金が安いところで今でいうタックスヘイブンですね。そこの本社で日本からの買い付けは全部やっていたんですが、そこで東京とちょっと意見が合わなくて。で、東京に帰るか、という風になったんですが、じゃあお前フランスに一人で行け、と言われて、一応初めてのフランスの駐在員として赴任したんですよ。1968年にフランスに渡ったんですけど、その頃のフランスはちょうど五月危機があった混乱の時代で、ド・ゴール政権に対しての反対運動を目の当たりにして衝撃を受けました。日本では1969年に東大安田講堂事件があって、1970年に安保闘争があって、三島由紀夫が死んで。
 
−金田
激動の時代で、その時代特有のエネルギーで溢れていたわけですね。

 
−出井
国の将来に不安や閉塞感を抱いているフランス人が、目をキラキラと輝かせて働ける会社をフランスで作ってやろうと思いましたね。今、日本は大人しくなっちゃったでしょ?僕のやりたいことは、日本でも目をキラキラさせている若い人を育てるというのがポイントなんですよ。
 

−金田
出井さんが60年代から70年代にかけてヨーロッパの空気を吸って、日本でも東大安田講堂事件があったり激動の時代だったと思いますけど、当時出井さんは世界とか日本の経済や文化についてどういう風にお感じになっていたんですか?


−出井
ヨーロッパって、フランスとドイツなんて喧嘩ばっかりだったでしょう。そういうヨーロッパが、アメリカに対当し、7つの国を経済統合(EC)するということに、興味をもったのです。僕の中の大きなテーマだったんです。


−金田
それはご自身で経済統合に一事を加えたいというのがあったんですか?


−出井
そうではなく、ヨーロッパの経済統合(EC)により、企業はどう変わっていくのか、また日本にどういう影響を及ぼすか? アジアもそういう事をすべきなのか? そういうことに興味をもちました。僕が好きな先生で、経済学者のヴィルヘルム・レプケ教授という経済学者がいて、戦後ドイツの社会的市場経済の源流となる、自由放任主義でもなく集産主義でもない「第三の道」があるはずだということを唱えていて、ヒトラーに追われて出て行ったんですが、なかなかの思想家だったんですね。
 
−金田
学者のお父さんをお持ちながら、自分はその道に行かなかったというのは、いつ頃に決められたんですか?


−出井
レプケ教授の影響も大いにあって、父親のような学者の道は選ばないで、カンパニーエコノミストとか、自分でビジネスとかやってみたほうが面白いかなとか思っていました。学生の頃からですね。それで将来大きく伸びると思われたベンチャーでソニーの前身の東京通信工業に入ったんですが、その頃半導体の技術や性能が伸びていくんですが、ソニーが一番進んでいたものだから、それは成長したんですよ。半導体をはじめ本当に技術も良かったしずっと伸びていたんですけど、その頃から見ていると、自分の中では今でもギャップがあって、今だにソニーが大企業だと思えないですよね。
 
−金田
僕はサッカーの人間なので、経済はもちろん音痴でわかりませんけれども、経済学の世界は奥深くて面白そうですね。


−出井
でもスポーツにも共通点がたくさんあるじゃないですか? 僕のこれまでの経験からして、スポーツの魅力というのはやっぱり「メディア価値」があることだと思います。僕はサッカーを見るのも好きだけれども、例えばアメリカに行くとアメフトというのはものすごい人気があるわけじゃないですか。一昨年現地に観に行ったんですけども、全米が観てる。スーパーボウルのこのメディア価値はすごいなと感じましたよ。
 
−金田
確かにアメリカのスポーツマーケットや文化はすごいですよね。


−出井
僕は93年のJリーグ開幕戦も観に行っていますし、日本ではサッカーはまだマシな方だと思いますけど、Jリーグ100年構想が始まった時に川淵さんがソニーに来てもらって、当時随分その話をしてもらったんですよ。そういった昔から日本のサッカーをはじめスポーツ全般を見ていて、スポーツのメディア価値って「勝ち負けのある勝負事」という点にあると思っていますけどね、メディアのバリューをどうやって上げるかというのをもう少し考える必要があると思う。それから選手が引退してから、どうしたら老後も安心して食えるかという仕組みが、アメリカなんかと比べると日本はまだまだ整っていない。すごい遅れていますね。
 
−金田
サッカーがプロ化して25年経ちましたけど、セカンドキャリアについては今後さらに考える必要が出てくると思います。時代とともに社会構造や産業も変化していく中で、サッカーという小さい枠組みだけじゃなくて、引退後も含めた自分の人生全体を通じて、自分を表現するという気持ちや視点がこれからはさらに醸成されてもいいかもしれないですよね。


−出井
これは僕が一昨年書いた「変わり続ける 人生のリポジショニング戦略」という本に書いてあるんですけど、クリエイティブマインドは年齢とともに衰えていくんですけど、分別心は年齢とともに大きくなっていくわけですよ。その2つがちょうどクロスするのが45歳で、45歳が人生の黄金期だと考えているのですが、サッカーや野球しか知らないまま、25歳くらいで急に社会に放り出されたらセカンドライフなんて難しいに決まっているじゃないですか。


−金田
確かに選手のセカンドキャリアについて、日本サッカー協会、Jリーグ 、OB会などそれぞれが取り組まれていることなんでしょうけど、名蹴会としてもセカンドキャリア支援に取り組みはじめまして、サッカーだけじゃなくて大学アスリートにもつなげてシェアしたいなと思っていますよ。


−出井
日本でBリーグも始まりましたけど、バスケットボールの選手もセカンドキャリア対策をやらないで去ったらね、家族と子供ができて、心の中で覚えているのは自分が花形でスポットライトを当てられた時だけでは、セカンドライフの形成はなかなか難しいですよ。
 
 
−金田
引退した後の方が長いですもんね。
 
 
−出井
そう、引退してからが長いんですよ。

 
−金田
名蹴会の活動の核として、我々の経験を伝えようと全国を飛び回ってサッカークリニックを展開していますが、今後拡げていこうとしているセカンドキャリア支援についても、まだ大きくなってはいないですけれども、間違っていないなって思うことができました。それと、出井さんがベンチャー企業や若手を「育てる」ことに力を注がれていらっしゃるように、一時的な投資ではなく、日本のスポーツ文化を長期的な視点を持って「育てる」という土壌を形成していかなければいけないですね。


−出井
小澤征爾という指揮者がいるでしょ。僕の2年先輩なんですけど、僕がバイオリンを弾いて、彼がピアノを弾いて、昔一緒に音楽をやっていたんですよ。彼は今ね、「小澤征爾音楽塾」を通じて世界中の子供たちを育てているんですよ。若い人に自分の知識を伝えていきたい、という気持ちがとにかく強いんです。年齢を重ね、病気を経ても今なお世界を巡っています。彼のエネルギーには負けたって感じはするんだけど、僕も志は同じですね。
Dialogue MC:Yoshifumi Asano(ALL MOVIE JAPAN Inc.)
photograph & text by SATO Shogo

PROFILE

クオンタムリープ株式会社
代表取締役 ファウンダー&CEO

出井 伸之(いでい のぶゆき)


1937年東京都生まれ。1960年早稲田大学卒業後、ソニー入社。主に欧州での海外事業に従事。オーディオ事業部長、コンピュータ事業部長、ホームビデオ事業部長など歴任した後、1995年社長就任。以後、10年に渡りソニー経営のトップとして、ソニー変革を主導。退任後、クオンタムリープ設立。NPO法人アジア・イノベーターズ・イニシアティブ理事長。