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メッセージ
名誉会長 釜本 邦茂
プロフィール:
国際A:76試合 / JSL:251試合 / Jリーグ:0試合
1944年、京都出身。早稲田大学一年で東京オリンピックに出場。卒業後ヤンマーディーゼルに入社。日本リーグ及び日本代表チームで数々の大記録を残す。中でも日本リーグ通算202得点、そして1968年メキシコオリンピックでは7得点をマークし同大会の得点王となり日本チームの銅メダル獲得に大きく貢献した。代表チームでの国際Aマッチ75得点は歴代一位である。また、国際Aマッチ得点率0.98はサッカーの王様ペレをもしのぐ世界歴代第一位。現役引退後ヤンマーディーゼル・ガンバ大阪で監督を歴任。2005年には第一回サッカー殿堂に最年少で選出された。
――このたび、名蹴会の名誉会長に就任されましたが、お引き受けになったいきさつについてお聞かせください。
釜本 前任の森孝慈さんは、私と早稲田大の同期生であり、東京、メキシコ両オリンピックなど日本代表でもともに戦ったチームメイト、彼が亡くなられたということで、その遺志を継ぐのは自分しかないという気持ちです。私は関西にいるので、これまでもいろいろお話をいただいた中でも、活動は東京、関東が中心ですから、なかなか力になれませんでした。しかし、今回特別なことですからできる範囲でサポートしていこうと思ったのです。
――近年の日本サッカーについて、どのように感じていますか。
釜本 ブラジル・ワールドカップ出場も決めて、5大会連続出場ということで、オリンピックにしても、アジアでは出て当然という立場になっています。それは日本サッカーの進歩を如実に表しており、素晴らしいことです。タレントもいろいろなところから出てくる環境ができて、各方面の努力の結果でしょう。
私たちのころは、1964年東京オリンピックの前など、東南アジアへ遠征しても相手は代表チームではなく、単独チームだったりしました。それでもなかなか勝てなかった時代でした。そこから東京オリンピックへの強化を経てメキシコで銅メダルを獲得したわけですが、この時のチームが終わりを迎えると、低迷してしまいました。それがJリーグの誕生、プロができたことで大きく変換しました。浮き沈みはありますけど、全体的にはJができて以降良い状態が続いていると思います。
――そんな中でも、釜本さんの目から見て問題点はあるのでしょうか。
釜本 若い人たちが安易に海外へ出ていくようになっているように感じますね。外国のクラブに移籍しても、試合に出られなければ意味がないでしょう。良いものを持っている選手はたくさんいるけど、本当の実力を身に着けてから、海外で勝負するべきだと思いますね。
それからJリーグを見ていると、どのチームもパスは回すけど、なかなかシュートを打たないように感じられます。もっと、シンプルに打てる時は打つ、ゴール前の攻防が一番見ている人にとって感動があるのですから、積極的にゴールを目指してもらいたいですね。イングランドのサッカーなんか、やることがシンプルで単純明快じゃないですか。もっと個人で勝負する場面が増えてもいいと思います。そういう力をもっと身に着けてもらいたいですね。
――1968年メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得し、大会の得点王にもなった釜本さんですが、サッカーとの出会いはいつ頃だったのでしょうか。
釜本 私がサッカーを始めたのは京都の太秦小学校で、蜂が岡中学、山城高校というラインは、当時の紫光クラブっていう京都教員蹴球団の先生方がおられて、いわば京都のサッカーのエリートコース。当時の国体では教員の部があって、いつも優勝を争うほどレベルが高くてサッカーが盛んだったのです。その先生方に見込まれて、もう中学へ上がるとサッカー部の先生が待っていました。小学校の池田先生に「サッカーは世界中で一番盛んなスポーツ、世界へ行けるぞ」と言われて始めたというエピソードがよく語られていますが、確かにそういったことを言われたのですが、当時の小学生に実感があったわけではなかった。ただ、言われるままにサッカー部に入って楽しかったから続けていた。高校へ入って2年生の時にユース代表に選ばれてアジアユース大会に出場して、本当に海外へ行ったことで池田先生の言葉を実感できました。それに、自分が全国でどのくらいの実力があるのかも大体分かったことで、オリンピックを目指す気持ちになれたのです。そして早大に入って、日本代表にも選ばれて東京オリンピックに出ることができた。メキシコで銅メダルを取るまでには、世界中の国のチームと対戦しました。
やはり、サッカーというスポーツのグローバルなところは大きな魅力です。このスポーツをさらに広めていくことが私たちの役目だと思っています。
名誉会長 釜本 邦茂
(文・インタビュー 国吉好弘)
会長 金田 喜稔
プロフィール:
国際A:58試合 / JSL:139試合 / Jリーグ:0試合
1958年、広島県生まれ。中央大学2年生で日本代表に選出され、1977年6月に行われた日韓戦での代表初ゴールは、日本代表歴代最年少得点ゴール(19歳119日)として今も刻まれている。卒業後、⽇産自動車株式会社サッカー部(現・横浜F・マリノス)でもチームの中心選手として活躍し、国内タイトル7冠獲得に貢献。国際Aマッチ58試合出場。変幻⾃在のドリブルを得意とし、「キンタダンス」と呼ばれる独特のフェイントで世界の選手を驚愕させた。また、日本代表ではペレ、ベッケンバウアー、マラドーナ、ケンペス、クライフなど世界のスタープレイヤーと対戦した経歴をもつ。
現役引退後は、サッカー教室の開催、サッカー日本代表戦の解説者をつとめるなど、サッカーの指導・普及活動にあたる。2010年、⽇本サッカー名蹴会 会長に就任。
だれもがサッカーを楽しめる環境づくりに、
名蹴会が少しでもお役に立てればと思いっています。
頂点を走り続けていたプレーヤーは、プレイも言葉も重みが違う。
名蹴会会員は高いハードルを超え、日本サッカー界の頂点を長く走り続けてきたプレーヤーたち。言葉にしても、プレイにしても、さまざまな経験をしてきた人にしかない重みや価値があるに違いありません。高い基準を維持し、壁にぶち当たってもそれを打破してきた者にしかできない伝え方があるはずです。
ベストを尽くして相手に勝とうとする態度、それがフェアプレーです。その精神を広めたい。
また、フェアプレーの精神についても伝えていきたいと思っています。ルールを守る、相手をケガさせないといったことは当然ですが、本当のフェアプレーとはそれだけではありません。ルールを守ったうえで、ベストを尽くして相手に勝とうと本気でプレイすること。だから、僕は子ども相手でも父兄相手でも決して手を抜かずプレーしたいと思います。
子どもだからといって手加減するのは、かえって子どもに失礼です。真剣に戦って、本気のプレイを見せてこそ、子どもたちは「このおっさん、やるなぁ」という気持ちになり、目の色を変えて、サッカーを一生懸命やろうとするのです。欧米には“good loser(良き敗者たれ)”という言葉がありますが、勝利を目指し、負けたときは潔くよく相手を讃えるフェアプレーの精神を、名蹴会のサッカークリニックなどを通じて日本にも根付かせていければと思っています。
だれもがサッカーを楽しめる環境づくり。それは、名蹴会の目標です。
同時に、未経験のお父さんやお母さんなど、うまいへたにかかわらず、サッカーを楽しむ文化を広げていきたいとも考えています。競技人口の増加、底辺の拡大、だれもがサッカーを楽しめる環境づくりなどに、名蹴会が多少なりともお役に立てればと思っています。
できることなら全国47都道府県をまわり、サッカーを楽しむ人をもっともっと増やしたい。子どもはもちろん、保護者や指導者の方々とも本気になってボールを追いかけ、サッカーを通じて元気になってほしいし、我々も元気になりたい。名蹴会が少しでも社会に貢献できるように活動していくつもりです。世界中で愛されているサッカーだからこそできると確信しています。
会長 金田 喜稔
副会長 都並 敏史
北海道から沖縄、過去から未来をつなぎ、
サッカーの発展と社会貢献のために、名蹴会は活動します。
サッカーはもちろん、その他のスポーツや遊びも積極的に楽しんでほしい。
小学生のとき、体育が得意な先生にすすめられ、ヴェルディでサッカーをはじめたのですが、片道1時間半かけて通うのも苦にならないくらい楽しかったですね。といっても当時は週に1度、ヴェルディでサッカーを教えてもらい、その他の日はいっしょに通っている友達と近くの公園で練習をしたり、サッカーだけでなく野球をはじめ、いろいろな遊びをしました。だから今の子どもたちにも、サッカーはもちろん、さまざまなことで体を動かしてほしいですね。
「楽しむ事と逃げない事」
名蹴会の役割という意味では、日本サッカーの未来を明るくすること。そのために子供達に今以上サッカーを好きになってもらいたいし、更には「負けない気持ち」を持つ少年達を増やす事がとても大切だと思います。サッカーを本当に楽しみ、心の底から好きになれば自然とボールを蹴りたくなり自然と練習量も増えるものです。また「負けない気持ち」とは「自分にも負けない」し「相手にも負けたくない」という負けず嫌いな心です。サッカー界だけでなく現代社会の中にも減りつつある「逞しくて強い気持ち」を持った人間を増やす上では、歴戦の勇者である名蹴会メンバーの発する言葉には重みがあり価値は高いと考えます。
日本サッカーの発展を願い、全国各地を回りながら「何が大切なのか!」を伝えていければと思っています。
「過去をリスペクトしながら前へ進む」そんなサッカー文化を根付かせたい。
正しいサッカー文化の浸透をさせて行くという意味でも名蹴会が果たす役割は大きいと思います。たとえば、日本サッカー界には過去の偉大なプレーヤー達の「一芸」に興味を持つ文化がまだ根付いていない気がします。世界の歴史ある強豪国などでは、名選手の持つ「伝説のプレー」をテレビで何度も放送して子供たちが真似をしたり、サッカー番組で現代サッカーとの比較をするなど「過去のプレー」にも興味を持ち学びながら、「現代サッカー」を伸ばしていこうとする雰囲気があります。「釜本さんの右45度からのシュートが何故必ず決まるのか?」「金田さんのドリブルはなぜ簡単に世界レベルのDFを縦に抜く事が出来たのか?」など、日本サッカー界には「偉大な先輩から学べる財産」が未だ数多くあると思います。
過去をリスペクトし前に進むことが自然になれば、日本サッカーは更に成熟し成長するはずです。サッカーに限らず、自分たちの前を歩き道を切り拓いてきた先輩を敬い、過去からも貪欲に学ぶ姿勢は必ず未来につながります。「過去からも良い物を学び、現代に活かす事の大切さ」を発信していく事も「名蹴会の重要な使命」だと考えています。
北海道から沖縄までの地域を結び、過去から未来までの時間をつなぎ、日本サッカーと日本社会の発展に寄与して行けるよう名蹴会は幅広い活動を行っていきます。
副会長 都並 敏史
副会長 井原 正巳
小学生のときに見た、一流選手のプレイが今でも脳裏に。
今度は、名蹴会として恩返し。
サッカーに育ててもらったから、名蹴会の活動で恩返し。
名蹴会の活動は、サッカーへの恩返しだと思っています。僕自身、小学生のときに少年団でサッカーと出会い、以来ずっとサッカーとともに歩んできました。現在でもサッカーにかかわりながら生きていくことができているのは本当に幸せなこと。だから、名蹴会の活動は自分にとって極めて自然なことなんです。今度は自分が、サッカーにお返しをする番と考えていたところで、何かで役に立てればと手を挙げました。
サッカーを通じた社会貢献にはどういう方法があるのか、いちばんいい方向を探りながらになりますが、子どもたちだけでなく、保護者の方や地域の方との交流など、さまざまな活動をしていければと考えています。
超一流のプレイに驚いたサッカー教室の体験を、全国の子どもたちに。
子どもの頃、釜本邦茂さんやセルジオ越後さんのサッカー教室に参加した際、目の前でプレイを見て「こんなにうまいのか」とものすごく驚いた。今でも脳裏に鮮明に焼き付いています。そのような貴重な体験を、今度は僕たちが日本各地の子どもたちにプレゼントしたいですね。
名蹴会のサッカークリニックなどに参加した子どもたちが刺激を受け、保護者の方といっしょにサッカーを好きになり、サッカーの輪が広がっていく、という楽しい流れが全国各地で生まれるようにがんばってまいります。
サッカーが楽しめる環境をもっと整備し、真のサッカー先進国へ。
プロリーグのなかった僕の少年時代と比べれば、日本のサッカー人口は飛躍的に伸び、環境の整備もかなり進みました。とはいえ、ヨーロッパをはじめとするサッカー先進国から見れば、日本サッカーはまだまだ成長途上。名蹴会はさまざまな活動を通じ、だれもが安心してサッカーが楽しめる環境づくりに少しでも貢献し、健やかな少年少女の育成や、明るく豊かな社会を築く一助となることを目指しています。
副会長 井原 正巳